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2014.01.19
芸所名古屋 役者評判記 江戸期の7冊 御園座で発見
建て替えのため一時閉館中の老舗劇場「御園座」(名古屋市中区)の書庫から、江戸時代に名古屋で上演された歌舞伎の「役者評判記」7冊が見つかった。評判記は、興行の多かった江戸や大阪では歌舞伎好きのために盛んに出版されていたが、これまで名古屋では4冊しかなかった。ほかの地方都市での刊行はほとんどなく、専門家は「名古屋が芸所であったことを裏付ける」と話す。(坪井千隼)
見つけたのは、近世芸能文化を研究する南山大の安田文吉教授(68)と、妻の徳子・岐阜聖徳学園大教授(67)。御園座の依頼で未整理資料を調べていて、昨年8月に書庫の奥から茶封筒に入った状態で見つけた。
7冊は、江戸時代中ごろの1747〜95年に書かれたとみられる。いずれも大きさは縦10センチ、横16センチほどの横長で、20〜80ページ。
それぞれ名古屋で上演された歌舞伎を1〜3本ほど取り上げる。例えば、発見された1冊「役者稽古能(けいこのう)」は宝暦7(1757)年制作と記され、その年に上演された歌舞伎「伊勢海道銭掛松(いせかいどうぜにかけのまつ)」を主に取り上げ、登場する役者の絵と一緒に、演技の出来栄えを批評した文書を添えている。
当時、上方で活躍した女形、佐の川花妻(はなつま)について「大でけ。いつみてもやわらかなこと」(上出来だ。いつ見ても、女らしいしなやかな演技だ)と高く評価している。
著者名は「和笑」「租碩」と巻末にあった。ほかの評判記「役者百薬長(ひゃくやくのちょう)」にも「白笑」と同様にペンネームが記されていた。著者は歌舞伎に詳しい町人らが考えられ、安田文吉教授は「江戸や京都の役者評判記をまね、名古屋版の評判記を作ったのだろう」と話す。
名古屋では18世紀前半に尾張藩主徳川宗春が芝居や祭りを推奨し、芸能文化が花開いた。見つかった7冊が作られたのは、その数十年後。安田徳子教授は「町人たちのエネルギーを感じる。名古屋にも江戸や京都に負けないほど、芸能文化に関心が高い人が多かったのだろう」と話した。
役者評判記 江戸時代に刊行された歌舞伎役者の評論本の総称。1700年ごろから江戸、京都、大阪で興行された歌舞伎について毎年定期的に発刊されていた。一般に役者の演技を、「上上」「中の上」などと格付けし、文章でも批評する。江戸時代の演劇史を知る貴重な資料となっている。
(2014年1月19日 中日新聞朝刊1面より)
見つけたのは、近世芸能文化を研究する南山大の安田文吉教授(68)と、妻の徳子・岐阜聖徳学園大教授(67)。御園座の依頼で未整理資料を調べていて、昨年8月に書庫の奥から茶封筒に入った状態で見つけた。
7冊は、江戸時代中ごろの1747〜95年に書かれたとみられる。いずれも大きさは縦10センチ、横16センチほどの横長で、20〜80ページ。
それぞれ名古屋で上演された歌舞伎を1〜3本ほど取り上げる。例えば、発見された1冊「役者稽古能(けいこのう)」は宝暦7(1757)年制作と記され、その年に上演された歌舞伎「伊勢海道銭掛松(いせかいどうぜにかけのまつ)」を主に取り上げ、登場する役者の絵と一緒に、演技の出来栄えを批評した文書を添えている。
当時、上方で活躍した女形、佐の川花妻(はなつま)について「大でけ。いつみてもやわらかなこと」(上出来だ。いつ見ても、女らしいしなやかな演技だ)と高く評価している。
著者名は「和笑」「租碩」と巻末にあった。ほかの評判記「役者百薬長(ひゃくやくのちょう)」にも「白笑」と同様にペンネームが記されていた。著者は歌舞伎に詳しい町人らが考えられ、安田文吉教授は「江戸や京都の役者評判記をまね、名古屋版の評判記を作ったのだろう」と話す。
名古屋では18世紀前半に尾張藩主徳川宗春が芝居や祭りを推奨し、芸能文化が花開いた。見つかった7冊が作られたのは、その数十年後。安田徳子教授は「町人たちのエネルギーを感じる。名古屋にも江戸や京都に負けないほど、芸能文化に関心が高い人が多かったのだろう」と話した。
役者評判記 江戸時代に刊行された歌舞伎役者の評論本の総称。1700年ごろから江戸、京都、大阪で興行された歌舞伎について毎年定期的に発刊されていた。一般に役者の演技を、「上上」「中の上」などと格付けし、文章でも批評する。江戸時代の演劇史を知る貴重な資料となっている。
(2014年1月19日 中日新聞朝刊1面より)