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お知らせ  2019.11.07

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2000人の子 旅館へ寺へ 旧長島町、木曽岬村から集団避難 大同大名誉教授、新聞で足跡追跡

長島町と木曽岬村の子どもたちの避難行動を調査した大同大の久保田稔名誉教授=愛知県愛西市で

長島町と木曽岬村の子どもたちの避難行動を調査した大同大の久保田稔名誉教授=愛知県愛西市で

 東海地方に大きな被害をもたらした1959(昭和34)年の伊勢湾台風。発災直後、三重県の旧長島町(桑名市)と旧木曽岬村(木曽岬町)の小中学生が集団避難した詳細な足取りが、専門家の研究で明らかになった。長島町の歴史をまとめた「町誌」には、伊勢湾台風自体の記述がなく、木曽岬村も子どもたちの具体的な避難行動は不明だった。研究成果は、当時の災害対応の状況を浮き彫りにする「新資料」といえる。(大野雄一郎)

 調査したのは、大同大(名古屋市)の久保田稔名誉教授(74)=河川工学。当時の中部日本新聞(現中日新聞)の記事を調べ、長島町と隣の木曽岬村の小中学生約2000人の避難先を追跡した。

 台風が紀伊半島に上陸した同年9月26日夜、長島町と木曽岬村では堤防が決壊し、全域が浸水し、住民らが孤立。三重県の災害対策本部は同年10月1日、子どもたちを集団避難させる方針を決めた。

 久保田さんの調査によると、避難先になったのは三重県内の楠町(現四日市市)や津市、鈴鹿市、伊勢市の旅館など7カ所で、10月中旬には避難が完了した。避難所を転々とした子どもたちもおり、旧海軍航空隊の格納庫跡だった電気通信学園(鈴鹿市)や高田本山専修寺(津市)などが一時的な避難施設として使われていたことも分かった。避難所を移動した日付や、11月8日から12月20日にかけて順次、長島、木曽岬に帰郷したことも記事などから明らかにした。

 当時、長島町の長島南小学校5年生だった主婦(70)=桑名市長島町=は当時の避難生活を今でも覚えている。

 祖母から「長島の堤防は絶対に切れん」と言い聞かされてきたという女性。被災直後はしばらく家にいたが、数日後に近隣の子どもらと一緒に伊勢市にあった伊勢神宮参拝者用の施設「如雪園」に避難した。「婦人会の人たちが食事を作ってくれ、授業は大広間で受けた」という。

 久保田さんによると、集団避難の記録は、郷土史家の私的な調査を除き、被災自治体など公的機関が「記録」として十分に整理してこなかった経緯がある。久保田さんは「被害が大きかった長島や木曽岬の歴史が埋もれるのは良くない。欠落した情報の一部を補うことができた」と話す。

 約380人の死者・行方不明者を出した長島町の町誌は70年代に上下巻が完成。伊勢湾台風について、下巻に「続編」で記述する旨の断り書きがあるが、続編は刊行されなかった。

 長島町の歴史などを紹介する桑名市の公共施設「輪中の郷」の斉藤理(おさむ)館長補佐(53)は、台風の記述自体がなかった理由を「記憶に新しすぎて『歴史』として記述するのにふさわしくないという判断だったのでは」と推測。一方で「久保田さんの研究で、伊勢湾台風の歴史の解明に向けた機運が高まるかもしれない」と期待を込めた。

 久保田さんの調査結果は、国土交通省中部地方整備局の木曽川下流河川事務所が9月発行した資料集「KISSO」の特別号に掲載されている。

(2019年11月7日 中日新聞朝刊27面より)

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