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2014.07.04
信長生誕地 古文書では・・・播磨中京大教授 「勝幡城説」愛西で解説
戦国武将の織田信長が愛西、稲沢市境にあった勝幡(しょばた)城で生誕したとされる説の根拠となった古文書を読み解く講座が3日、愛西市佐織公民館であった。中京大の播磨良紀教授(56)が古文書の読み方を手ほどきした。(藤嶋崇)
この古文書は、当時の公家、山科言継(ときつぐ)(1507〜79年)が書いた「言継卿記(きょうき)」。
名古屋市中区にあった那古野城で生誕したとの定説では、信長が生まれる2年前の1532年に信長の父信秀が、今川氏豊から那古野城を攻め取ったことが前提だった。しかし、言継卿記の33年の記録には「那古野 12才 今川竹王丸(氏豊の幼名)」とあった。信秀は32年にはまだ那古野城を攻略していない可能性が高まり、定説に疑問を投げ掛ける記述として注目された。
一方、愛西市所蔵の「尾州古城志」などには信長が勝幡城で生まれたとの記述があった。近年、研究者の間でも勝幡城生誕説が有力になってきている。
播磨教授は「山科言継は中流公家。当時は公家が地方に行くことはよくあった」と説明。参加した市民ら22人と言継卿記の原文を一緒に読み、言継と信秀が交流した様子を紹介した。
この講座は、勝幡城生誕説の根拠となった言継卿記を広く知ってもらおうと、公民館が企画した。
(2014年7月4日 中日新聞朝刊尾張総合版より)
この古文書は、当時の公家、山科言継(ときつぐ)(1507〜79年)が書いた「言継卿記(きょうき)」。
名古屋市中区にあった那古野城で生誕したとの定説では、信長が生まれる2年前の1532年に信長の父信秀が、今川氏豊から那古野城を攻め取ったことが前提だった。しかし、言継卿記の33年の記録には「那古野 12才 今川竹王丸(氏豊の幼名)」とあった。信秀は32年にはまだ那古野城を攻略していない可能性が高まり、定説に疑問を投げ掛ける記述として注目された。
一方、愛西市所蔵の「尾州古城志」などには信長が勝幡城で生まれたとの記述があった。近年、研究者の間でも勝幡城生誕説が有力になってきている。
播磨教授は「山科言継は中流公家。当時は公家が地方に行くことはよくあった」と説明。参加した市民ら22人と言継卿記の原文を一緒に読み、言継と信秀が交流した様子を紹介した。
この講座は、勝幡城生誕説の根拠となった言継卿記を広く知ってもらおうと、公民館が企画した。
(2014年7月4日 中日新聞朝刊尾張総合版より)