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2016.07.08
清洲会議3日前 秀吉宛て 織田信雄 焦りの書状 中京大2教授発表 信長後継 アピール?
天下統一を目指した織田信長が本能寺の変で世を去った後、後継者を決める場として開かれた「清洲会議」。その直前、有力候補でありながら選ばれなかった信長の次男信雄(のぶかつ)(1558〜1630年)が、自身の存在を誇示するような書状を羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)宛てに送っていた。中京大(名古屋市)文学部の村岡幹生、播磨良紀両教授が入手、研究していた書状を7日、公開した。後継者争いで出遅れ、勢いを増す秀吉との関係で焦りの心情がうかがえる内容。信雄の動向を示す資料は乏しく、会議を巡る当時の人間模様を解明する貴重な手掛かりだとしている。
書状は、岐阜城に陣取っていた秀吉宛て。「そちら(岐阜城)の近所へ陣地を移そうと思ったが、適地がなく、まず北方(三重県四日市市北部か岐阜市西側)あたりに陣地を置きました。そちらの状況に応じ決めていただき、連絡をください。それを受けてそちらの近くへ陣地を移します」といった内容。6月24日付で、清洲会議の3日前に書かれたことになる。
信雄にとって秀吉は本来部下にあたる家臣。ところが、信長を自害に追い込んだ明智光秀を討つなどして影響力を増した秀吉に気を使い、近づきたい思いが書状からうかがえるという。
秀吉が光秀を倒した山崎の戦いに信長の三男信孝は加わったが、信雄は参加していなかった。その後も信孝は秀吉とともに尾張、美濃で明智側の残党を制圧する戦いを続けており、信雄も早く加わりたい一心だったことが読み取れる。
書状は、村岡教授らが東京都内の古書店の商品カタログの写真に「織田信雄書状」との文字を見つけ購入し、分析していた。古書店がどこから入手したかは業界ルールで明かさないことになっているという。当時一般的に使われた楮紙(ちょし)と言われる横40.1センチ、縦29.4センチの和紙に筆で書かれ、折り畳まれていた。
記した字の墨が乾く前に畳んだためか、折り重なった部分に墨の汚れがあり、慌てて送ろうとした可能性もあるという。信雄は末尾に添える署名代わりの花押(かおう)に、以前は養子に入った北畠家のものを使っていたが、書状では織田家の花押を使っている。秀吉に織田家後継を強く印象づけたい狙いがあったとも読める。だが、清洲会議では、後継は信長の長男信忠の子三法師(後の秀信)が選ばれた。
村岡教授は「長男死去で次男の自分が最有力候補になるにもかかわらず、秀吉から何も連絡がないことに焦りを感じたのでは」と分析。播磨教授は「早く秀吉の動きに参戦したい焦りがあったはず。秀吉宛ての貴重な史料」と話す。
書状は16、17日に中京大で開かれるオープンキャンパスで公開される。
■映画では「大うつけ者」
圧倒的な存在だった信長の後継者を決める清洲会議。劇的なイメージから、三谷幸喜さん原作、監督の映画「清須会議」の題材にされ、2013年11月に公開された。
信長の次男信雄役は俳優妻夫木聡さんで、大うつけ者で頼りない人物として描かれた。織田家筆頭家老の柴田勝家は役所広司さん、羽柴秀吉は大泉洋さんがそれぞれ務め、コミカルで分かりやすいストーリー展開だ。
7日の会見で中京大の村岡幹生教授は、この映画を念頭に「本当にそんなドラマチックなことがあったかどうか疑問。(跡継ぎを巡ってあの手この手で争った清洲会議のイメージは)江戸時代になってつくられたもの」ときっぱり。「別の史料では、信雄と三男信孝は後継者になるのをやめ、信長の孫三法師にする、といった表現も見られる。恐らく(会議前から)ある程度決まっていたのかもしれない」と話した。
▼清洲会議 織田信長の死を受け、旧暦の1582(天正10)年6月27日、織田家の後継者と領地分配を決めた会議。清洲城(愛知県清須市)に織田家の4重臣と呼ばれた秀吉や柴田勝家らが集まり、後継者を信長の孫の三法師に決めた。長男信忠は本能寺の変の際に死去しており、次男信雄、三男信孝も候補とされたが、選ばれなかった。
(2016年7月8日 中日新聞朝刊31面より)
書状は、岐阜城に陣取っていた秀吉宛て。「そちら(岐阜城)の近所へ陣地を移そうと思ったが、適地がなく、まず北方(三重県四日市市北部か岐阜市西側)あたりに陣地を置きました。そちらの状況に応じ決めていただき、連絡をください。それを受けてそちらの近くへ陣地を移します」といった内容。6月24日付で、清洲会議の3日前に書かれたことになる。
信雄にとって秀吉は本来部下にあたる家臣。ところが、信長を自害に追い込んだ明智光秀を討つなどして影響力を増した秀吉に気を使い、近づきたい思いが書状からうかがえるという。
秀吉が光秀を倒した山崎の戦いに信長の三男信孝は加わったが、信雄は参加していなかった。その後も信孝は秀吉とともに尾張、美濃で明智側の残党を制圧する戦いを続けており、信雄も早く加わりたい一心だったことが読み取れる。
書状は、村岡教授らが東京都内の古書店の商品カタログの写真に「織田信雄書状」との文字を見つけ購入し、分析していた。古書店がどこから入手したかは業界ルールで明かさないことになっているという。当時一般的に使われた楮紙(ちょし)と言われる横40.1センチ、縦29.4センチの和紙に筆で書かれ、折り畳まれていた。
記した字の墨が乾く前に畳んだためか、折り重なった部分に墨の汚れがあり、慌てて送ろうとした可能性もあるという。信雄は末尾に添える署名代わりの花押(かおう)に、以前は養子に入った北畠家のものを使っていたが、書状では織田家の花押を使っている。秀吉に織田家後継を強く印象づけたい狙いがあったとも読める。だが、清洲会議では、後継は信長の長男信忠の子三法師(後の秀信)が選ばれた。
村岡教授は「長男死去で次男の自分が最有力候補になるにもかかわらず、秀吉から何も連絡がないことに焦りを感じたのでは」と分析。播磨教授は「早く秀吉の動きに参戦したい焦りがあったはず。秀吉宛ての貴重な史料」と話す。
書状は16、17日に中京大で開かれるオープンキャンパスで公開される。
■映画では「大うつけ者」
圧倒的な存在だった信長の後継者を決める清洲会議。劇的なイメージから、三谷幸喜さん原作、監督の映画「清須会議」の題材にされ、2013年11月に公開された。
信長の次男信雄役は俳優妻夫木聡さんで、大うつけ者で頼りない人物として描かれた。織田家筆頭家老の柴田勝家は役所広司さん、羽柴秀吉は大泉洋さんがそれぞれ務め、コミカルで分かりやすいストーリー展開だ。
7日の会見で中京大の村岡幹生教授は、この映画を念頭に「本当にそんなドラマチックなことがあったかどうか疑問。(跡継ぎを巡ってあの手この手で争った清洲会議のイメージは)江戸時代になってつくられたもの」ときっぱり。「別の史料では、信雄と三男信孝は後継者になるのをやめ、信長の孫三法師にする、といった表現も見られる。恐らく(会議前から)ある程度決まっていたのかもしれない」と話した。
▼清洲会議 織田信長の死を受け、旧暦の1582(天正10)年6月27日、織田家の後継者と領地分配を決めた会議。清洲城(愛知県清須市)に織田家の4重臣と呼ばれた秀吉や柴田勝家らが集まり、後継者を信長の孫の三法師に決めた。長男信忠は本能寺の変の際に死去しており、次男信雄、三男信孝も候補とされたが、選ばれなかった。
(2016年7月8日 中日新聞朝刊31面より)