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2013.10.07
北方領土忘れないで 朝日大生12人が北海道に 返還要求運動県民会議派遣
■元島民 平均79歳 残された短い時間
ロシアに終戦直後から実効支配されている北方領土(国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島)。北海道以外の人たちの関心が低くなっているのでは?県内の全42市町村と商工会議所連合会などでつくる「北方領土返還要求運動岐阜県民会議」がそんな危機感からこの秋、朝日大法学部(瑞穂市)の学生12人を北海道に派遣した。学生らは、元島民の「北方領土を忘れないで」という願いにあらためて耳を傾けた。(佐久間博康)
「こんなに近いんだね」。知床半島の羅臼国後展望塔で、朝日大2年の清水歩実さん(20)はちょっと驚いた。シラカバ林の向こうに根室海峡を望み、その先に想像よりもずっと大きな島影が広がっていたからだ。
わずか25キロ先の国後島。森林に恵まれているのだろう。全体的に緑色だ。建物や港は判別できなかったけれど、3つの高い山がそびえているのがはっきりと分かった。
「目の前の島が別の国の領土なんて・・・」と、つい考えてしまった清水さん。日本の一部のはずなのに、同行した記者も実は同じことを思ってしまった。そんな誤解が元島民にとってはつらく、悲しい。
択捉島出身で根室市在住の鈴木咲子さん(74)は「北方四島がロシアに不法に占拠されていることを忘れてはいけません」と呼び掛ける。北方領土全体を合わせて1万7000人いた島民で、今も生きているのは7000人。平均年齢は79歳で、残された時間は短い。
ソビエト連邦、つまり現在のロシアの兵隊が、小学生だった鈴木さんの村に銃剣を持って乗り込んできたのは、1945(昭和20)年9月のこと。郵便局員だった鈴木さんの養父は、大事な懐中時計や万年筆を奪われた。
3年後、択捉の島民全員が樺太の収容所に移された。「食べさせてくれたのは、ほんの少しのおかゆとニシンの塩漬けぐらい」と鈴木さん。日本に強制送還されるまでのわずか1カ月間で亡くなる子供もいた。おそらく栄養失調だった。
鈴木さんは「苦労して既に亡くなった島民たちのためにも、北方領土の返還運動をおろそかにできない」と訴える。実の父母の墓が択捉にあり、「返還が決まれば、その翌日にでも行きたい」。朝日大3年の川原さやかさん(21)は「心にぐっとくるものがあります」と涙を抑えながら聴いていた。
「返せ!北方領土」。元島民の多い根室市内の目抜き通りには、人の背丈の2倍ほどある看板が立っている。一方で、道路の行き先を告げる標識には「Kycиpo」(釧路)や「Пopт Hзмypo」(根室港)とのロシア語表記が。観光や漁業などで人の行き来が盛んになっていることがうかがえる。
「ビザなし交流」も92年から続いている。パスポートや査証(ビザ)なしで、北方領土に住むロシア人と北方領土ゆかりの日本人が相互訪問をする取り組みだ。
ただ、根室市の領土問題の啓発施設「北方館」の清水幸一副館長(58)は、「ただの友好交流になっている」と嘆く。本来は相互訪問の際にロシア人と対話集会をして領土問題の存在を強調する狙いもあったが、ロシア側の意向で2010年にその集会は廃止された。
それ以来、ロシア側が来日する際は観光や買い物だけに力を入れているのではないか。日本側が訪ロする際もただの旅行感覚の人がいる−。清水副館長はそう懸念する。
「領土問題について、僕たちはあまり知らなかった」と振り返るのは、朝日大3年の鈴木清将さん(21)。元島民や清水副館長らの話を聴き、「日ロ双方が北方領土での共存に向けて歩み寄ることが必要」と考えるようになったという。「領土が戻った時に日本人がロシア人を追い出したら、歴史の繰り返しだから」
引率の大野正博朝日大教授(43)は「学生たちが今回の成果を同世代の仲間にどう伝えるか楽しみ」と話した。
【北方領土】総面積は岐阜県のほぼ半分にあたる5036平方キロメートル。旧ソ連(現ロシア)軍が1945年8月の第2次大戦終了後から上陸し、同年9月5日に占拠を終えた。現在は1万7000人のロシア人が住み、主要産業は漁業と水産加工業。返還を求める県民会議は各都道府県にあり、岐阜では県国際戦略推進課が事務局を務めている。
(2013年10月7日 中日新聞朝刊岐阜県版より)
ロシアに終戦直後から実効支配されている北方領土(国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島)。北海道以外の人たちの関心が低くなっているのでは?県内の全42市町村と商工会議所連合会などでつくる「北方領土返還要求運動岐阜県民会議」がそんな危機感からこの秋、朝日大法学部(瑞穂市)の学生12人を北海道に派遣した。学生らは、元島民の「北方領土を忘れないで」という願いにあらためて耳を傾けた。(佐久間博康)
「こんなに近いんだね」。知床半島の羅臼国後展望塔で、朝日大2年の清水歩実さん(20)はちょっと驚いた。シラカバ林の向こうに根室海峡を望み、その先に想像よりもずっと大きな島影が広がっていたからだ。
わずか25キロ先の国後島。森林に恵まれているのだろう。全体的に緑色だ。建物や港は判別できなかったけれど、3つの高い山がそびえているのがはっきりと分かった。
「目の前の島が別の国の領土なんて・・・」と、つい考えてしまった清水さん。日本の一部のはずなのに、同行した記者も実は同じことを思ってしまった。そんな誤解が元島民にとってはつらく、悲しい。
択捉島出身で根室市在住の鈴木咲子さん(74)は「北方四島がロシアに不法に占拠されていることを忘れてはいけません」と呼び掛ける。北方領土全体を合わせて1万7000人いた島民で、今も生きているのは7000人。平均年齢は79歳で、残された時間は短い。
ソビエト連邦、つまり現在のロシアの兵隊が、小学生だった鈴木さんの村に銃剣を持って乗り込んできたのは、1945(昭和20)年9月のこと。郵便局員だった鈴木さんの養父は、大事な懐中時計や万年筆を奪われた。
3年後、択捉の島民全員が樺太の収容所に移された。「食べさせてくれたのは、ほんの少しのおかゆとニシンの塩漬けぐらい」と鈴木さん。日本に強制送還されるまでのわずか1カ月間で亡くなる子供もいた。おそらく栄養失調だった。
鈴木さんは「苦労して既に亡くなった島民たちのためにも、北方領土の返還運動をおろそかにできない」と訴える。実の父母の墓が択捉にあり、「返還が決まれば、その翌日にでも行きたい」。朝日大3年の川原さやかさん(21)は「心にぐっとくるものがあります」と涙を抑えながら聴いていた。
「返せ!北方領土」。元島民の多い根室市内の目抜き通りには、人の背丈の2倍ほどある看板が立っている。一方で、道路の行き先を告げる標識には「Kycиpo」(釧路)や「Пopт Hзмypo」(根室港)とのロシア語表記が。観光や漁業などで人の行き来が盛んになっていることがうかがえる。
「ビザなし交流」も92年から続いている。パスポートや査証(ビザ)なしで、北方領土に住むロシア人と北方領土ゆかりの日本人が相互訪問をする取り組みだ。
ただ、根室市の領土問題の啓発施設「北方館」の清水幸一副館長(58)は、「ただの友好交流になっている」と嘆く。本来は相互訪問の際にロシア人と対話集会をして領土問題の存在を強調する狙いもあったが、ロシア側の意向で2010年にその集会は廃止された。
それ以来、ロシア側が来日する際は観光や買い物だけに力を入れているのではないか。日本側が訪ロする際もただの旅行感覚の人がいる−。清水副館長はそう懸念する。
「領土問題について、僕たちはあまり知らなかった」と振り返るのは、朝日大3年の鈴木清将さん(21)。元島民や清水副館長らの話を聴き、「日ロ双方が北方領土での共存に向けて歩み寄ることが必要」と考えるようになったという。「領土が戻った時に日本人がロシア人を追い出したら、歴史の繰り返しだから」
引率の大野正博朝日大教授(43)は「学生たちが今回の成果を同世代の仲間にどう伝えるか楽しみ」と話した。
【北方領土】総面積は岐阜県のほぼ半分にあたる5036平方キロメートル。旧ソ連(現ロシア)軍が1945年8月の第2次大戦終了後から上陸し、同年9月5日に占拠を終えた。現在は1万7000人のロシア人が住み、主要産業は漁業と水産加工業。返還を求める県民会議は各都道府県にあり、岐阜では県国際戦略推進課が事務局を務めている。
(2013年10月7日 中日新聞朝刊岐阜県版より)